メンタルヘルスを考察する

メンタルヘルスについて感じたり考えたりしたことを書くブログです

先日彼女と別れました。

先日彼女と別れました。ブログを立ち上げて最初の記事にしてはタイトルがあまりに重すぎる気がしますが、別れ際に彼女が放った一言が気になったので記事にします。

 

概要 

先日彼女と別れました。原因について色々と思い当たる節はありますが、その際たるものはおそらく「結婚観の違い」だったと思います。お互いの「結婚観の違い」が発覚してからだんだんと口論になる数が増えていきました。お互い、一つ大きな「気にくわないこと」があると、その他些細なことまで気にくわなくなっていきました。そして、最終的に別れるに至りました。

 

「私の話が全然出てこなかったのがショック」 

彼女は私に何を望んでいるかを聞きました。なにが結婚する上でネックになっているかということです。私は自分の気持ちを伝えました。まだまだ地元から上京してきて日が浅く、仕事も始まったばかりだし、 これから自分のやりたいことはたくさんある。今結婚する、そして子供を育てるにはまだ自分があまりに子供である。主にこれらのようなことを伝えました。

 

これを聞いた彼女は「私の話が全然出てこなかったのがショック。私のこと全然考えてくれていないんだね」と言いました。この言葉には自分もショックを受けました。なぜなら、私は今まで彼女の気持ちを考えて行動してきたと思っていたからです。それは「どうすれば彼女が喜ぶだろうか 」ということです。そして実際に考えたことを実行に起こしてきました。それに対して実際に彼女が喜んでいたときもありました。これは「私が彼女の気持ちを考えた行動をとった結果、彼女が喜んだということではないのか?」と思いました。

 

以前から自分は「空気が読めない」人間であること、そして「こだわりが強い」人間であることは自覚していました。これはつまり「人の気持ちを考える」のが苦手であるということです。ですが、私は自分なりに「人の気持ちを考える」ことはしてきたつもりでした。苦手ですが、それでも苦手なりにできることはやってきました。だからこそ「それらがすべて無であった」可能性に気づかされたとき、私を得体の知れない空虚な感情が襲いました。そして「どうして自分は人の気持ちを考えられないのだろう」と思いました。

 

 「人の気持ちを考える」とはどういうことか

元々私には自閉的な傾向があります。昔はよくクラスの友人と遊んでいました。しかし今にして考えてみると友人とのトラブルが耐えなかったことを思い出します。今も大して変わってないように思えますが、当時から私は自分の世界を強く意識していました。自分の世界とは「自分はこうなりたい」「周りにはこうあってほしい」といったような、いわゆる自分の願いのことです。人間誰しも多少はこういった感情を持つことは仕方ないことだと思いますが、私の場合は特に強く、自分の考えと異なる考えを中々認めることができませんでした。

 

そもそも人の気持ちを考えるとはどういうことなのでしょう。世間一般の人たち(以降「定型発達者」と表記します)も真に他の人の気持ちを考えることはできるのでしょうか。私はやや極端な見方をしているのかもしれません。多少自分の思いを曲げても人の気持ちを考えなければならない場面は往々にしてあると思います。しかし結局は「相手の望むものを以下に提供できるか」 、これが究極には「人の気持ちを考える」ことであると私は思います。

 

やや人間味のかける意見かもしれません。ですが、これは「本当に人の気持ちを考えるとはどういうことなのか」ということを考えることに繋がると思います。例えば悲しむ人が目の前にいたしとして、その人に共感することは誰にでもあることでしょう。「共感する」というのは「人の気持ちを考える」ということに含まれるでしょう。悲しむ人は共感されると自分の心が安らぐかもしれません。しかし、悲しむ人が共感されているというのはどのようにして知ることができるのでしょう。何もしていないのに他人の気持ちを読み取れるというようなことはできません。つまり「私はあなたに共感している」ということを示すことで、初めて人は共感されていることを知るのです。

 

それは言葉によってかもしれませんし、あるいは態度によって示すことができるかもしれません。しかしそれらの態度はあくまで選択的に共感する人によって提示されるものです。つまり、どのカードを切るかはその人の自由であるわけです。従って、悲しむ人に対して共感するのはもちろん良いことだし、あるいは共感すべきでないと思えば無理にする必要もないわけです。

 

逆に考えれば本当は共感なんかしてなくても共感しているふりさえすれば悲しむ人の心は休まるかもしれません。これは本当に「人の気持ちを考える」行為なのでしょうか。偽善的であるようにさえ見えます。しかし「悲しむ人の気持ちは安らいでいる」という結果だけみれば、「本当に共感したとき=人の気持ちを考えたとき」と同じことが起きています

 

そもそも自閉的な傾向のある人は「共感」、すなわち「人の気持ちを考える」ことが難しいのでしょうか。一見彼らは「他人に興味がなく、自分のことしか考えていない」ように見えます。しかし事実は違います。自閉的な傾向のある人も共感することはできるのです。このことについて千住淳は次のように述べています。

...自閉症を抱えた方は、相手の考えていることを推しはかったり、相手の動きをまねしたり、相手の目を見たりすることがまったくできないわけではない、ということです。多くの場合、条件を整えると、自閉症を抱えた方でも、定型発達者と同じような心の動きをみせるのです。(p95)

 しかしこの後に千住は次のようにも述べています。

ただ、こういった理解が「できる」ことと、その理解に基づいた行動を「自発的に行う」こととの間に違いが生まれることが、自閉症者を対象とした研究からは繰り返し報告されています。(p95)

 自閉的な傾向のある人は他の人の気持ちを考えることはできます。しかし、それを「自発的に行う」かどうかはその人にかかっています。つまり、彼らがそれを選択的に行うかどうかは彼らの自由であるということです。定型発達者は「相手の気持ちや考えになぜか思いを巡らせてしまう」(千住淳. p96)のに対し、自閉的な傾向のある人はそうではない。これがひいては自閉症が「障害」と言われている所以なのかもしれませんが、彼らに人の気持ちを考えることができるのは事実です。だからこそ私は「自閉的な傾向のある人も共感すること、ひいては人の気持ちを考えることができる」と主張したいです。

 

自閉的な傾向のある人は自分の世界というものを強く意識しています。彼らにとって世界は絶対的、かつ彼らの内側に存在するものであり、外側の世界を自分の内側の世界を通して捉えようとします。彼らはその世界を容易に崩すことを良しとしません。しかし、これは単純に彼らの「こだわりが強い」とか「プライドが高い」といった言葉で片付く問題ではありません。彼らの特性について浅い見方しかしないとすれば、これらの言葉で片付けることはできるかもしれません。しかし、これらの特徴はあくまで「彼らの脳の特性によって現れた表面的なものにすぎない」のです

 

自閉的な傾向のある人は、ある物事に対して注意が向いているとき、対象から注意を背けるのが困難であるという特徴があります。このことについて千住淳は自閉症児と定型発達児を対象にして行われた「ギャップ効果」の実験を用いて説明しています。そして、この実験の結果、「自閉症児は、ある場所に注意を向けたとき、そこから意識的に注意を引きはがし、他の場所に注意を動かすのに時間がかかるのではないか、と考えられて」いるそうです(千住淳. p106)。このことは彼らが結果として「こだわりが強い」と見られてしまう要因の一つであるように思えます。

 

この特徴は、先ほども書きましたが、単純に「こだわりが強い」というような言葉で片付けられる問題ではありません。なぜなら、この特徴の裏には「多くの自閉症児は感覚過敏を持ち合わせている」という事実が隠れていることをないがしろにすることはできないからです。

 

感覚過敏は「障害」ではなく、「個性」です。感覚過敏を持っている人は、通常の人が気にならないような音に過剰に反応したり、逆に通常の人が気になる物事に対して鈍感であったりします。これらの特徴は一見矛盾しているようにも見えますが、「感覚過敏を持つ人は特定の物事に対して過剰に反応しすぎて、他のものごとに対して注意のリソースを割くことができない」と考えれば理にかなっています。つまり、感覚過敏を持つ人にとっては、意識的か無意識的かに関わらず、ある特定の物事で頭の中がいっぱいになってしまい、他のことに目を向けることができなくなることがしばしばあるということです。このことについて熊谷高幸は次のように説明しています。

自閉症者の場合は、ある刺激が入り込むと、感覚の枠いっぱいに広がり、そのまま停留する。すると後続の刺激は感覚の枠に入り込めない状態で通過し、見落とされてしまうのである。ここで、感覚の枠とは、取り込める刺激の範囲を示している。このことによって刺激と刺激の間の時間・空間的な関係が捉えにくくなる。これが、自閉症者に感覚の過敏性と鈍感性が同居しているように見える理由である。だから、過敏性があるからこそ鈍感性がある、といえる。(熊谷高幸. p10)

 

しかし、感覚過敏を持つ人の特徴はこれだけに留まりません。なぜなら入ってきた刺激が好ましいものであれば没入し、好ましくないものであれば回避するという特徴を彼らは持ち合わせているからです。熊谷高幸は先ほどの引用から、さらに次のように述べています。

感覚過敏とは、人が外部環境にある何らかの刺激によって強い衝撃を受けることから始まる。そして、その衝撃が強すぎて苦痛となる場合は、それを避けるため、たとえば耳を押さえるなどの回避行動が生まれる。しかし、これは刺激を受け入れにくい場合である。逆に受け入れやすい場合は、そこから通常以上の感覚が生まれるわけだから、その世界に没入することになる。例えば自閉症の子が、小石や水やそのほか愛好するもので延々と遊び続けている姿はよく見かけるものである。(熊谷高幸. p13)

 

今まで述べてきた事実を考慮すれば、「なぜ自閉的な傾向のある人は自分の世界というものを強く意識しているのか」が少しだけ紐解けるような気がします。もちろんそれを単純に「感覚過敏が原因である」という風に帰結するのは早計であると思います。しかし「自閉症児は往々にして感覚過敏を持ち合わせている」ということは少なからず寄与しているのではないかと思います。

 

それに対して、定型発達者はどのような世界観を持ち合わせているのでしょう。興味深いことに、昨今の世の中では「定型発達症候群」という言葉が登場しています。これは発達障害という概念が登場し、逆に定型発達の人たちがとる奇妙とも思える行動を皮肉ったジョークです。しかし、この言葉は彼らが世界をどのように認識しているのかを示唆してくれます。千住淳は彼らの特徴について以下のようなことを述べています。

定型発達症候群を持っていることは、日常生活や学業、就労の困難さにつながることもあります。例えば、まわりの人が何を考えているのか、他人から自分がどう見られているのかを気にしすぎて、自分の好きなことに没頭したり、自分の才能を伸ばしたりする機会を失ってしまうかもしれません。(千住淳. p194)

 どのような特徴が具体的に定型発達症候群に当てはまるかについては割愛しますが、上記の引用だけでも定型発達者と自閉的傾向のある人の特徴は異なっていることがわかります。つまり、定型発達者は周りの人や物事などの外側の世界により目を向けているのに対し、自閉的な傾向のある人は自分の興味関心などの内側の世界により目を向けているということです

 

以上のような事実から、定型発達者と自閉的な傾向のある人との間で衝突が起こることは少なくないのではないかと思います。定型発達者は周りの人や環境に合わせることに重きをおいているため、より柔軟に、円滑に社会活動を送ることができます。それに対して自閉的な傾向のある人は自分の世界を強く意識し、環境の変化をよしとしません。どちらの傾向が良い悪いという問題ではありません。しかし両者の違いが衝突の原因になるということは少なからず言えるのではないかと思います。両者が半ば相容れない関係であることに関して熊谷高幸は「自閉症者には感覚過敏という特性がある。だから、環境変化は強い衝撃をもたらすため、彼らはそれを非常に恐れる傾向がある」と述べ、さらに「周りの人々は、恐れているこの環境変化を次々に実行してしまう」と述べています。(熊谷高幸. p40)

 

今まで「自閉的な傾向のある人は特定の物事への興味関心が強い」ことを述べてきました。そしてその特徴によって、ときには「定型発達者と衝突を起こしてしまう」ことを述べました。しかし、「自閉的な傾向のある人も共感することができる」ことも述べました。ときに彼らは自分の世界に入り込んでしまうことがあるかもしれません。しかし、彼らは完全に他人への興味を失っているのではなく、彼らなりの方法で社会と関わろうとしている可能性は否定できないのです。

 

以前より周りの人から、ことあるごとに、「ツダはこだわりが強い」ということを言われてきました。現代の社会で「こだわりが強い」ということが良い文脈で語られることは少ないように思えます。当時の私は当然ショックを受けました。

 

しかし、私とて他人への興味を完全に失ってるわけではありません。たしかに自分のこだわりが強いのは否めませんがそれでも社会に貢献できるよう自分なりのやり方考えてきました。大学生活を終え社会人として働き始めましたし、そうなってから以前より社会(この場合は職場)に貢献できるよう考えることが増えました。

 

だからこそ彼女から「私のことは全然考えてくれていない」と言われたことがとてもショックでした。なぜなら、「自分は働き始めてから、以前より人の気持ちをより優先した行動が取れるようになっている」と思っていたからです。私は「彼女の気持ちを考え」、彼女の望むことを行ってきたつもりです。これは自分のためでもありましたが、喜ぶ彼女の姿を見て自分の気持ちが綻んだこともあったということは事実です。しかし彼女は結果的に先のような言葉を発しました。そうして我々の関係は終わりを迎えました。

まとめ

「人の気持ちを考える」ことはとても難しいことです。少なくとも私はそのように感じます。それは、私が「人のためにした」ことが裏目に出て他の人を不快にさせてしまったり、あるいは私の「特に何も意識していなかった行動」が他の人の役に立っていたりすることが往々にあるからです。

 

彼女は私に何を求めていたのでしょう。単純に私の話の中に彼女の名前が登場すればよかったのでしょうか。これは今だにわかることではありません。ことはそう単純ではなかったと思います。

 

今回、「人の気持ちを考える」ということについて自分の経験を踏まえながら、途中はやや分析的に物事を記述しました。しかし、こうやってこの記事を書き終えた後でも「人の気持ちを考える」とはどういうことなのかはっきりしていません「相手の気持ちに心から共感していなくても、相手の欲望をかなえてあげることが人の気持ちを考えることなのか」。「逆に相手の気持ちに心から共感していても、なにも行動できなければ相手の気持ちを考えたことにはならないのか」。こういった疑問はこれから先もずっと続いていくような気がします。

 

人の気持ちは一筋縄ではいかない」ことを今回の出来事で認識しました。もちろん「人の気持ち」に対してなにかしらの答えが存在するわけではないと思います。しかし、より良い方法でコミットしていく方法はあるはずです。だからこそ学び続けなければならないし、その分興味深いのかもしれません。

 

あとがき

途中「自分は自閉的な傾向がある」という前提に立ちつつ、記事を書いていました。以前は自閉的な傾向があるということに対してコンプレックスを感じていたこともありましたし、今もその気持ちが完全に拭えていないことは事実です。なぜなら、いまでさえ私にとって人と関わることは難しく、それには自閉的な部分が寄与しているのではないかと心の何処かで思っているからです。しかし、自閉症についての本を読み進めるうちに「自閉症を『障害である』と断定するのは間違いである」ということがわかってきました。今では「自閉的な部分にもいいところがもちろんある」ということをはっきりいうことができます。

 

以前は何とかして定型発達の人のようになろうと努力していました。しかしその努力は中々実らずにいました。そして、あるとき私は自分自身が「定型発達者と呼ぶにはあまりに自閉的で、自閉症者と呼ぶにはあまりに定型発達的である」ということがわかりました。私はこの言葉に差別的な(悪意のある)意味合いを込めたつもりはありません。しかし、事実として私は両者のハザマにいる人間、いわゆる「グレーゾーン」にいるのではないかと自覚しています。これが本文中で私が両者のことを「彼ら」と描写した理由です。

 

だからこそ私は両者について勉強していかなければならないと思っています。なぜなら両者はそれぞれに、それぞれの良いところを持っているからです。もちろん完全に両者のどちらかになることなど不可能ですし、そう思うこと自体間違いであると思います。だからこそ、私は私のできることをやっていかなければならないと思うし、そうやって社会で生きていかなかければならないと思うのです。

 

参考:

千住淳 「自閉症スペクトラムとは何かーひとの『関わり』の謎に挑む」. 2014. 筑摩書房.

熊谷高幸 「自閉症と感覚過敏」. 2017. 新曜社.